あの人が仕事ができるのはいい大学を出たから
私の人生が上手くいかないのは学歴が低いから
このような学歴コンプレックスを持っている人は多いです。
実際、私も学歴コンプレックスを持っており、それがきっかけで東京大学大学院(東大院)に進学しました。
なぜなら学歴さえあれば、人生安泰だと考えていたからです。
しかし東大院を卒業して社会に出て派遣社員になったり工場勤務になったりと、私の人生は想像していたようにいきませんでした。
そして最終的に分かったことは「学歴よりも実力をつけることの方が重要」ということです。
そこで学歴コンプレックスで東大院を卒業した私が社会人になって気づいた本当の実力についてお伝えしていきます
目次
東大院に入学すれば人生勝ち組だと信じてやまなかった
私は高校を卒業し地方大学に入学しました。この地方大学は、大学名だけ見れば決して就職が不利になる大学ではありませんでした。
むしろ大学の名前だけ聞けば、周囲から優秀と称される大学です。しかし、私はそれだけでは安心できませんでした。
なぜなら、もっと良い学歴を持つ人はたくさんいると考えていたからです。
そのため、より高い学歴の人と比べると、自分は学歴のハンディキャップがあるといつも感じていました。
もちろん今となっては、その考えが正しいものではないことは分かります。学歴だけで決まることはないし、むしろ実績をつけることの方が大切です。
しかし私は学歴さえあれば、いい会社に就職でき安定した人生を送れると本気で考えていたのです。
当時の私は学歴至上主義を疑うことなく、高学歴を手にすることに頭がいっぱいでした。
そして就職により有利な学歴を得るために、東大院に進学することにしたのです。
学歴ロンダリングして東京大学大学院に入学した
東京大学に大学生として入学するのは難しいです。しかし、東大院へ大学院性(修士課程)として入学することは決して難しいものではありません。
それこそ地方大学出身の私であっても数ヶ月勉強すれば合格することができました。
実際東京大学大学院の入試は倍率が2倍でした。
実際、この2倍を突破しさえすれば、最終学歴に「東大院」と書けるわけですから、数ヶ月の勉強も苦しいものではありませんでした。
そして見事合格し、以下の入学許可書をもらったときは歓喜しました。
「これで有名企業への切符を手にした」と信じてやまなかったのです。
学歴ロンダリングとは? 簡単に学歴コンプレックスを解消する方法
補足ですが、学歴ロンダリングについて説明しておきます。
私のように下位レベルの学校から、東大のような上位レベルの学校へ進学することを学歴ロンダリングと呼びます。
学歴ロンダリングを行うメリットは、最終学歴を有名大学に書き換えることにあります。
学歴ロンダリング(がくれきロンダリング)とは、日本で大学院進学の際に自身の出身大学よりも更に上のレベル(学歴)の大学院に進学することを指すインターネットスラングである。別名は大学院ロンダリングであり、ネガティブな意味あいで使われることが多い。略称は学歴ロンダ、院ロンダ。
この学歴ロンダリングに成功すれば、履歴書などを含め東大院卒のような周囲からうらやましがられる実績を手にすることができるのです。
東大院に進学して人生勝ち組は確定したはずだった
このように学歴ロンダリングして東大院に入学することができ、晴れて私は人生の勝ち組の仲間入りをした気分でした。
なぜなら東大院というだけで人からうらやましがられるようになったからです。
例えば就職活動のセミナーに行けば、東大院というだけで「すごいですね」や「頭いいんですね」と言われていました。
私自身、それらの言葉を鵜のみにしていました。
口先では「そんなことはないですよ」と答えながら、心の中では「そうですよ」と思っていたものです。
しかし、もともとは学歴ロンダリングして東大院に入学した人間です。賢い人から見れば、私の化けの皮はすぐにはがされてしまいました。
有名企業への面接に落ちる
東大院に入って就職活動の時期になり私は2社受けました。エントリーシートは合格でし、面接にこぎつけました。
しかし、私は面接で2社とも不合格になってしまいました。正直言って、不合格になった理由は分かりませんでした。
このとき、へこたれずにいくつも就職活動をすれば未来は変わっていたのかもしれません。
ただ、私には東大院という学歴以外に自分に誇れるものがありませんでした。
そのため、学歴があっても合格できなかった自分にひどく自信を失ってしまったのです。
さらに悪いことに、東大院の友人は年収700万の戦略コンサルとして就職したり大手メーカーに就職したりしていきました。
彼らをうらやましいと感じながらも、私も絶対に負けたくないと心の底で思っていました。
そこで、ある方法をとることにしました。
博士課程進学に方向転換した
理系の大学院では、大学卒業後に修士課程で2年勉強し、博士課程で3年することができます。
大学院に入学する人の多くは、博士課程に進学せず、修士課程で2年勉強し企業に就職します。
博士課程に進学するのは一部の研究マニアか将来研究者を志す人だけです。
当時の私は博士課程に進学し、その後に企業に就職することに方向転換を考えていました。
なぜなら、就職活動でうまくいかなかったからです。博士課程まで勉強して成果を上げれば、有名企業にいけると考えました。
つまり修士課程での就職活動の失敗をなかったことにしようとしたのです。
実際、当時の博士課程の先輩は、超有名の製薬企業へ入社しました。
東大という学歴だけでなく研究成果という実績もあれば、鬼に金棒と考えたのでた。
今思えば、就職活動で失敗する自分を見るのがイヤで逃げてしまったのです。
ただ、当時の私は博士課程進学という選択肢にすがることで、ダメな自分を見ないようにしていました。
そして東大院の同期が就職活動を進めていく中、私は研究に没頭していったのです。
大学の教授と仲が悪く博士課程進学ができなくなる
博士課程に進学するからには研究を頑張る必要があると考え、1日14-16時間は研究を行っていました。
研究を行っていた時間だけ見れば、頑張っている部類に入っていました。
しかし、その頃の私は自分自身の実力を客観的に捉えることができませんでした。
そのため、自己中心的な考えで研究を進めてしまったのです。
実際、私を指導してくれた教授からのアドバイスを素直に受け取ることができませんでした。
教授からのアドバイスではなく、自分の力でなんとかしたかったのです。
自分の力でなんとかできれば、自分の実力を証明できると考えていました。
ただそのような行動をしていたせいで、教授からは「話を聞かない学歴」と捉えられ、アドバイスをもらう機会も少しずつ減っていきました。
そして同期が有名企業の内定をもらい始めた5月頃、私は教授に部屋に来るように言われました。
そこで言われた言葉は、「私を博士過程でとしては取らない」ということでした。
私は必死に食い下がり1時間以上話を続けましたが、教授には全く聞いてもらえませんでした。
私は周囲が就職活動を終え内定をもらい始めたころに、唯一の望みだった博士課程の進学の道が断たれたのです。
修士課程の残った時間で成果を出せばいいのでは?
博士課程に進学できないことが決まったことは本当にショックでした。しかし、このままでは終われないと考えていました。
なぜならこのまま何もしなければ、就職浪人した東大院卒となってしまうからです。
そうなれば、「何か問題があったせいで就職できなかった高学歴」というレッテルを貼られ、不利益しかないと思ったのです。
そこで、修士課程在学中に研究で成果を出すことに集中したのです。
もし研究で成果を出せば、来年の就職活動の時期に実績を話すことができると考えたからです。
たとえ就職浪人をしたとしても、研究で実績を出せば「私は自分の研究テーマを終わらせるために就職活動はあえてしませんでした。実際に○○という研究成果を出しました」と面接で答えることができます。
つまり、実績さえあれば「就職できなかった」ことを「敢えて就職活動しなかった」に書き換えることができると考えたのです。
そして5月から翌年3月までの約10ヶ月間、私は研究生活に勤しみました。
しかし残念ながら、努力むなしく研究で成果を出すことはできませんでした。
そして失意のまま逃げるように東京から実家へ帰りました。
東大院を卒業したのに、人生負け組になってしまった
友人が年収700万の戦略コンサルとして働くのと同じタイミングで、私は無職になりました。
東大院という同じ学歴を持つ人間が、ここまで違う未来を歩むことになるのかと思ったものです。
そして東大院に入学したときに喜んでいた両親と実家で暮らすことになったのです。
東大院を卒業して無職になった私を見て、両親はさぞかし「不憫に感じている」といつも思っていました。
ただ、当時の私は「大学院卒だから、すぐに仕事先は見つかる」と信じていました。
しかし、現実はそう簡単にはいきませんでした。地方の仕事に応募しても、書類落ちしてしまうほどだったのです。
そのせいで、どんどん自分に対する自信を失っていきました。
たった1年前までは有名企業に行き人生の勝ち組になると信じてやなかった人間がこうなるものかと。
ただこのまま無職でいると、経済的に困窮してしまいます。そのため、何としてでも就職をする必要がありました。
社会人としての最初のキャリアは派遣社員だった
無職になって半年後、なんとか就職先が決まりました。
しかし、地方の中小製薬企業に派遣社員として勤務するというものでした。
しかも、その職場は関西の山奥にあり電車が一時間に一本しかない超田舎でした。
引越しをして関西の山奥へ移動するとき、「この先どうなるのだろう」という不安と「東大院のときの同級生は楽しくやっているのだろう」という妬みで胸がいっぱいだったのを今でも覚えています。
高学歴の派遣社員は格好のえじきだった
初めて職場に向かう朝、私は「大学院卒なのに派遣社員として働く」ということに情けなさを感じていました。
このときほど「社会の負け組だな」と思ったことはありません。
実際、朝礼を済ませて、用意された自分の席に座ったとき、「あなた、東大卒なんだって? なんでここなんかに来たの?」と言われたのです。
「いや、就職活動に失敗して」という私。
「そうなんだ。今は学歴があっても大変な時代なんだね」という正社員の先輩。
このような田舎の会社では、私の経歴は筒抜けでした。
どうやら「高学歴が入社する」ことは周知の事実だったらしく、しかもそれが派遣社員としてであれば、スキャンダルのようなものだったのです。
このようなことに心の中では思われていることは理解していたつもりでした。
ただ、実際に言葉で言われると違った辛さがこみあげてきました。
派遣社員にスキルアップや未来はなかった
私は派遣社員を通じて、研究スキルを磨き正社員へのステップアップを考えていました。
なぜなら年収が200万円台だったからです。
いくら就職口がなかったとはいえ、同期の友人が年収700万もらう一方で、私が年収200万台なのは受け入れ難い事実でした。
だからこそ、正社員になり給料を上げたかった。そして、胸を張って同期の友人に会いに行ってやると思っていたのです。
しかし現実はそう上手くいはいきませんでした。
なぜなら、派遣社員の職場はスキルアップがまったく期待できない環境だったのです。
実は私が派遣された先は製薬企業でした。そのため最新設備を使って仕事をすると思っていました。
しかし現実は、使用している設備は古い上にアナログ作業ばかりでした。
東大で勉強していた時は機械がやっていた仕事を人間が手作業でやっていたのです。
既に機械化されている仕事をこれから覚えて何の意味があるのか。
このように、派遣社員として仕事を始めたときに、「こんな単純作業をやる意味があるのか?」、「こんな仕事を続けていて、本当に将来は大丈夫か?」と強く感じたのです。
このような意味のない作業を覚えている間に、私の友人たちは若くして海外案件を担当したり、経営層と議論したりするのです。
彼らは、どんどんキャリアアップしていきます。
一方で私の仕事は、基本的に上司から仕事のスケジュールが渡され、「同じ作業を毎日ひたすら続ける」というものでした。
決まった仕事を決められた手順で行うのです。
このままでは、大学院の頃の友人に追いつくどころか差をつけられて、ついには追いつけなくなってしまう。
私は強い危機感を覚え、日に日にその気持ちは強くなっていきました。
そしてこのとき「自分はこのままでいいのだろうか」、「なぜ東大院にまで行って学歴ロンダリングをしたのか」を思い返していました。
そして、このままでは終わりたくない本気でそう思ったのです。
自分を変えるために本気で勉強した
地方の中小企業で働き、その現実を知って学歴なんてものが本当に意味がないことだと理解しました。
そして、私がこれまで学歴に頼ってきたことを知りました。
ただ東大院という最高学歴を手にし人生安泰と信じていた自分は、今こうして派遣社員として年収200万台で生きているのです。
ここまで来てようやく、実力をつけなければ人生は何も変わらないことを感じたのです。
そして仕事を始めて3ヶ月経ったとき、仕事以外の時間で勉強をすることに決めたのです。
まず英語を学習することにしました。それは「英語が自分の強みとしてアピールしやすそうだ」と考えたからです。
実際、これまでの自分を振り返り、大学院のときに英語でプレゼンをしたり、学生時代に海外留学生のチューターをしたりしていました。
早い話、英語をアピールポイントにして、派遣社員から抜け出そうと考えたのです。
仕事で使えるスキルを習得して人生を変える
当時の私は毎日朝6~7時に出社し19時に帰宅して、そこから就寝までの間を勉強に費やしました。
例えば、会社の昼休みも英語教材で勉強していました。
当時の私はとにかく勉強することだけを考えていました。
英語を勉強して転職を決める
そしてTOEICの英語学習を始めて、半年経過した頃にTOEICを受験しました。
勉強の成果もあり、TOEIC770のスコアを取得しました。
TOEIC770のスコアは全体の上位15-30%くらいの位置付けです。
正直ものたりないと感じましたが、学生時代の留学生チューター経験などを織り交ぜて転職の面接で話をすることにしました。
そこで、私の転職サイトに登録し、いくつかの企業に応募しました。
私の希望は「英語を使うこと」、「大企業であること」などを条件で活動し、まずは内資の製薬メーカーを受けることにしました。
私の場合は、幸運なことに最初の企業で内定をもらうことができました。
ひとまず、「派遣社員から抜け出せる」と安堵していました。
同時に、やっとキャリアアップの第一歩を進めることができた喜びを感じていました。
プログラミングで会社の仕事を100時間以上効率化する
一部上場企業の正社員になれたのですが、一つ不満がありました。
それは工場勤務だったことです。キャリアアップを目指していた私にはまだ物足りませんでした。
それでも、ここで経験を積んで、もっといい会社に転職しようと考えていました。
できることなら英語の仕事を経験して、海外の仕事をしたい。そうすれば、かつての友人に胸を張って会えると思っていたのです。
しかし、現実は、英語の仕事などまったくありませんでした。英語の仕事があっても、本社勤務の人の仕事でした。
これでは、何の経験もできません。資料のための資料ばかり作って本当に時間のムダだと思っていました。
そんなとき、先輩社員からエクセルの仕事を依頼されました。データ集計を効率的にやってほしいという依頼でした。
実は当時の私はエクセル初心者でした。東大院卒とはいっても、非IT系の分野だったので、エクセルについては詳しくありませんでした。
しかし理系出身者という理由だけで、エクセル仕事を依頼されたのです。
それでも、依頼されたからにはなんとかしたいと思いました。
そしてウェブで調べたり本を読んだりして1週間かけて、エクセル関数を使って自動化させることに成功しました。
このとき、依頼を完遂できたのは嬉しかったのですが、悔しさもありました。
なぜなら、もっと効率的にできる方法があったのではないかと思ったからです。
そこから、エクセルの使い方について調べるようになりました。
そしてエクセルマクロというプログラミングスキルを見つけたのです。
エクセルマクロについて調べていく内に、今の仕事の多くをボタン一つで終わらせることができることに気づきました。
しかも、自部署にはエクセルマクロを使える人は一人もいません。
私は「この状況はチャンスなのではないか。」と思ったのです。
そして、そこから平日は仕事が終わった後にエクセルマクロを勉強しました。土日は自宅でひたすらプログラムを作り続けました。
長期休暇のゴールデンウィークや夏休みを全て勉強に充てました。
エクセルマクロについて分からない人は以下の記事をご覧ください。
「グラフを自動作成して4時間以上の業務効率化」、「3人でやっていた仕事をシステム化して10時間以上の業務効率化」を次々と達成していきました。
その結果、会社の仕事を年間で100時間以上削減したのです。会社の評価査定が上がり、年収が100万円上がりました。
このとき「ああ、自分はできるんだなあ」と実感しました。
エクセルマクロの勉強体験記は以下で紹介しています。
英語で海外取引先へのプレゼンを担当する
このように勉強を続ける中で、「あいつは仕事ができる」という噂が立つようになっていきました。
そして、当初は考えられなかった英語の仕事が舞い込んでくるようになったのです。
これまで工場の人間が英語でのプレゼンをすることなどなかったのですが、私が抜擢されました。
他にも、以下のような仕事をしました。
・グローバル会議へ拠点代表として参加
・海外拠点のトップが集まる会議のとりまとめ
特に「新製品の海外販売のための登録」は大きなプロジェクトだったこともあり、私のチームの上司は社内表彰を受けました。
また、本社の海外部門や各部署のトップしか参加できない海外出張に800人の拠点の代表として参加しました。
そこで、通訳なしで議論をしたりプレゼンをしたりしました。
このような仕事を通じて、私は高い評価を得ることができました。
派遣社員時代から考えると、4年で年収は3倍~4倍に上がりました。
人生を変えたのは学歴ではなく努力だった
私は自分の人生を変えてくれたのは、学歴ではなく努力だったと言い切れます。
なぜならコツコツ勉強してきたから変わることができたからです。
例えば、会社勤務の時は、私が優秀なのは頭がいいからと思う人もいました。
しかし本気で勉強を決意してからの4年間、私は毎日自宅で2,3時間の勉強を続けていました。
この4年間の勉強なくして、年収3倍~4倍の変化はなかったはずです。
実際、会社で実力のある人たちと働くようになると、そのような実力のある人は学歴よりコツコツ勉強している人が多いです。
例えば、私の上司で年収1000万を超えていた人は大学の偏差値で言えば、中の下でした。
しかし学歴は高くなくても、英語を学び、自ら調べて課題解決をする人でした。
このように人生を変えるのは学歴ではなくその人の努力なのです。
私が社会人におすすめする勉強はこちらで紹介しています。
学歴も全く意味がないわけではない
ここまで学歴よりも努力だとお伝えしてきました。しかし、学歴が全く意味がないとは思いません。
なぜなら、学歴を重要視する人もいるからです。
私の学歴を伝えて相手に信頼してもらえるなら、それに越したことはないからです。
相手が学歴を重んじる人であれば、私は悪びれることなく学歴を利用します。
しかし学歴は相手の信頼を構築するための一要素に過ぎません。
つまり自分の仕事の質が低ければ、仕事で評価はもらえません。
実際、相手が本物であるほど学歴はまったく評価対象にならず、仕事の質でしか評価されません。
このように学歴はまったく意味がないとは思いませんが、あくまで信頼を構築するための一要素に過ぎないことは心にとめておくべきです。
学歴コンプレックスの正しい使い方|嫉妬と自己卑下を使い分ける
私は学歴コンプレックスのおかげで、楽しい思いも辛い思いも味わってきました。
その経験から言うと、学歴コンプレックスは自分を変える原動力にもなるし、足を引っ張る要因にもなることです。
以下のように学歴コンプレックスには2つの使い方があります。
悪い使い方|自己卑下(足を引っ張る要因)
正しい使い方|嫉妬(自分を変える原動力)
以下で一つずつ解説していきます。
学歴コンプレックスの悪い使い方|自己卑下(足を引っ張る要因)
学歴コンプレックスのもったいない使い方として、人をただうらやましがることがあります。
なぜなら人をうらやましがっているだけでは、何も変わらないからです。
たとえば、人生がうまくいっている人を見て「あの人は学歴がいいから」と自己卑下する人がいます。
それは本当にもったいないことです。実は学歴と成功は因果関係はありません。
実際、中卒でも起業して成功している人は私の友人に数多くいます。
しかし、学歴コンプレックスで自己卑下する人の多くは誰かの成功を学歴を結び付けたがります。
たとえ学歴が成功の要因ではないとしても、そこに答えを求めたがるのです。
学歴のせいであれば、自分が上手くいっていないことを正当化できるからです。
ただ、これでは何も変わりません。就職活動が成功した友人を遠くから見てうらやましがっていた私と同じです。
私も経験しましたが、残念ながらこのままでは何も変わりません。
学歴コンプレックスの正しい使い方|嫉妬(自分を変える原動力)
しかし、学歴コンプレックスにはもう一つの使い方があります。それは、嫉妬を起爆剤にして自分を変えることです。
なぜなら嫉妬や辛さがあれば、それを糧(かて)にして自分を変えることができるからです。
たとえば、私は就職活動が上手くいった同期をうらやましがっていました。
しかし、彼らがいたおかげで「あいつらに絶対負けたくない」、「派遣社員のまま終わりたくない」と強く思うことができました。
「絶対に実力をつけてやる」と心から思うことができたのです。
その気持ちに火がついてからは、休みの日は毎日勉強しました。
週末の土曜日には朝6時に起きて3時間かけて都会の英会話スクールに通った時期もあります。
それができたのは、私が同期への嫉妬を強く持ち続けることができたからです。
私が勉強を継続できた理由は、「会社に貢献したい」や「仕事を上手くこなしたい」という崇高(すうこう)なものではありませんでした。
しかし、それでよかったと思っています。
自分の気持ちに正直に生きて、嫉妬を勉強の糧に変えたからこそ今につながっているのです。
自分のために学歴コンプレックスを使え
私は学歴コンプレックスのおかげで東大院卒という高学歴を手にすることができました。
同時に高学歴の派遣社員になってしまい、つらい経験もしてきました。
しかし最終的には就職がうまくいった人に対する嫉妬をつかって、実力を磨くことができたのです。
私は学歴コンプレックスを持っていて本当に良かったと思っています。
人を羨ましがったり、よく見られたいと感じたりする力があったからこそ自分を動かすことができたのです。
私が学歴コンプレックスをもつ多くの人に伝えたいことは、「自分のために学歴コンプレックスを使え」ということです。
賢い生き方をしてほしいと心から思うのです。